金子稚子(わかこ)さんは流通ジャーナリストとして活躍されていた41歳で肺カルチノイドで亡くなられた金子哲雄さんの奥様です。
私は金子哲雄さんの、ホンマでっかTV等でのご活躍が今でも心に鮮やかに残っています。
お葬式の演出を自分でなさった少し珍しい方であります。
とてもサービス精神のある方で、私は今でも大好きですが、今回金子稚子さんの本をよんでかえってもっと好きになりました。
金子さんが亡くなられる前、闘病中に書かれた著書も涙ながら読ませていただきました。
ということでHSPでアダルトチルドレンの私の読書記録です。
大切な人が死ぬと知った時、大きな事故や病気にかかった時、「死んでほしくない」「生きていて欲しい」「諦めないで」「負けないで」「頑張って」「早く良くなって、元気になってね」そんな風に思うと思う。
そう思う事は自然かもしれないけど、周りの人間のエゴなのかもしれない。
治らない病気の人に、上述の言葉を投げかけることは時として、拷問のようなもの(だって期待に沿えないのだから)。
それならば、楽しい話の1つでも用意していきたいもんだ。
息を抜くのがへたくそな私にもすごく響く、、、、。
全力で仕事に取り組みながら、しっかり息抜きもされていたのかなと思う。
金子さんには会ってみたいので私もあちら側に行ったら、ぜひ探して御目通り願おうと思う。
私は評価と承認をどれほどして来ただろう?評価されているか?承認されているか?
そんなことばかりを気にして来たかもしれない。。。
急ですが、ブログ、読んでくださってありがとうございます。
ブログは主に自分の備忘禄としての位置づけですが、読んでくださる方に感謝します。
私の葛藤が誰かの孤独を癒したらいいなと思っています。
悲しみに暮れ続ける未亡人は、自分の悲しみに夢中なのかもしれない。
自分の感情だけしか目が向いていない。
毒親育ちに苦しんでいる自分もまた、自分で自分を必死に抱きしめているのかもしれない。
自分の体だからしょうがない。
健康だと忘れてしまうけど、ずっとずっと元気でいられるわけじゃないんだよね。
世の中で1つだけ確実なのは死亡率、これは100%、どんな金持ちでも悪党でも。
この気持ちは私はよくわかるきがするのです。
例えれば、心配かけると申し訳なくなる気持ちに似ていると思います。
「心配していたよ」という言葉がとても嫌いな私は、言われるとムッとしちゃいます。
心配しているっていう割になーんにもしない人が多いから。
心配している自分に酔いしれておられるのか、心配族たちよ。
(心配な気持ちを丸めてグチャっとぶつけてきて、心配させないでよ!と訴えられているような気分になるのです、または心配しているって言っている自分っていい人でしょと暗に言いたいかのように)
本書の中で死に際に、別れた妻子に謝罪をしたいと言った男性がいたけれど、元妻は謝罪も面会も断った話が出てきます。
私は毒親に死に際何か言われても(怒)という気分なのでこの部分はとっても痛快に読みました。
この男性は、金子さんのように奥様や周りの方と評価、承認、感謝のある関係ではなかったんだろうなぁ。。
これって、別れ際に彼氏がいい顔してくる、別れた後にあれこれして元鞘に戻ろうとする、失くしたものに価値があると勘違いする浅ましさに似ているなって思った。
私の命は私のもの、毒親のものでもない。
そして、生き抜くためには、息抜く力がひつようということ。
評価、承認、そして感謝の多い人生を送れればとても幸せだと思うこと。
いろんな失敗や悲しいことを『それはそれとして』と、わきに置きながら過ごしてみると、少し生きやすくなる気がする。
私は金子哲雄さんの、ホンマでっかTV等でのご活躍が今でも心に鮮やかに残っています。
お葬式の演出を自分でなさった少し珍しい方であります。
とてもサービス精神のある方で、私は今でも大好きですが、今回金子稚子さんの本をよんでかえってもっと好きになりました。
金子さんが亡くなられる前、闘病中に書かれた著書も涙ながら読ませていただきました。
ということでHSPでアダルトチルドレンの私の読書記録です。
好きだなと思った表現
(前書きより)その人の命は、その人のものである。
大切な人が死ぬと知った時、大きな事故や病気にかかった時、「死んでほしくない」「生きていて欲しい」「諦めないで」「負けないで」「頑張って」「早く良くなって、元気になってね」そんな風に思うと思う。
そう思う事は自然かもしれないけど、周りの人間のエゴなのかもしれない。
治らない病気の人に、上述の言葉を投げかけることは時として、拷問のようなもの(だって期待に沿えないのだから)。
それならば、楽しい話の1つでも用意していきたいもんだ。
「生き抜く力、息抜く力」金子哲雄さんが稚子さんに出会った後に送ったはがきに書かれていた言葉。
息を抜くのがへたくそな私にもすごく響く、、、、。
全力で仕事に取り組みながら、しっかり息抜きもされていたのかなと思う。
金子さんには会ってみたいので私もあちら側に行ったら、ぜひ探して御目通り願おうと思う。
関係の鍵を握る評価と承認と感謝これはとても金子さんらしいものだそうで、奥様である稚子さんにだけではなく、友人や仕事関係者の方々、医療関係者の方々にもそうだったそう。
評価とは、その行為が自分にとってどうだったのかを伝えること。そして承認については、「あなたはそれでいい」「あなたにそこにいてほしい」と伝えること。
私は評価と承認をどれほどして来ただろう?評価されているか?承認されているか?
そんなことばかりを気にして来たかもしれない。。。
急ですが、ブログ、読んでくださってありがとうございます。
ブログは主に自分の備忘禄としての位置づけですが、読んでくださる方に感謝します。
私の葛藤が誰かの孤独を癒したらいいなと思っています。
(哀しみから抜け出せない未亡人について)「私は悲しい。私を、私の悲しみを理解してほしい。」と自分で自分を抱きしめているだけなので、周囲が差し出している手を握り返すどころか、その手がそこにあることにさえ気づけないのかもしれません。
悲しみに暮れ続ける未亡人は、自分の悲しみに夢中なのかもしれない。
自分の感情だけしか目が向いていない。
毒親育ちに苦しんでいる自分もまた、自分で自分を必死に抱きしめているのかもしれない。
「生老病死」 「生きること」「老いること」「病気になること」「死ぬこと」が4つセットで人生である。苦しくてもそれが人生の真実で、逃れることはできない、というものです。
なぜ、医療現場はいつも責められてしまうのでしょうか。私は、過去の自分に対する反省の念を込めて、「人はいつか必ず死ぬということを、私たち自身が理解していないからだ」と考えるようになりました。確かに、病気は治ることもあるし、ずっと付き合って行くこともある。
自分の体だからしょうがない。
健康だと忘れてしまうけど、ずっとずっと元気でいられるわけじゃないんだよね。
世の中で1つだけ確実なのは死亡率、これは100%、どんな金持ちでも悪党でも。
厳しい事ではありますが、「頑張れ」は、自分の気持ちをぶつけているだけと言っていいのかもしれません。本の中で「何もできなくてつらい」と言われた時、「辛い思いをさせてすみません」と謝罪を要求されたような気になったエピソードが記してありました。
この気持ちは私はよくわかるきがするのです。
例えれば、心配かけると申し訳なくなる気持ちに似ていると思います。
「心配していたよ」という言葉がとても嫌いな私は、言われるとムッとしちゃいます。
心配しているっていう割になーんにもしない人が多いから。
心配している自分に酔いしれておられるのか、心配族たちよ。
(心配な気持ちを丸めてグチャっとぶつけてきて、心配させないでよ!と訴えられているような気分になるのです、または心配しているって言っている自分っていい人でしょと暗に言いたいかのように)
死の際に、謝罪をすればすべてが許されるわけではなく、また感謝を伝えれば気持ちが通じ合えるわけでもありません。
本書の中で死に際に、別れた妻子に謝罪をしたいと言った男性がいたけれど、元妻は謝罪も面会も断った話が出てきます。
私は毒親に死に際何か言われても(怒)という気分なのでこの部分はとっても痛快に読みました。
この男性は、金子さんのように奥様や周りの方と評価、承認、感謝のある関係ではなかったんだろうなぁ。。
これって、別れ際に彼氏がいい顔してくる、別れた後にあれこれして元鞘に戻ろうとする、失くしたものに価値があると勘違いする浅ましさに似ているなって思った。
それはそれとして理論は、人との死別以外のあらゆる哀しみに使えそう。藤井次郎先生からは、「それはそれとして」という教えをご紹介いただきました。悲しみは悲しみを抱えたままでも、「それはそれとして」と、次に進むきっかけをいただくことができました。
毒親『それはそれとして』、私はどうありたい?
その人の命は、その人のもの、だから他人を思うように動かそうなんて大それたことできないよね。私の命は私のもの、毒親のものでもない。
そして、生き抜くためには、息抜く力がひつようということ。
評価、承認、そして感謝の多い人生を送れればとても幸せだと思うこと。
いろんな失敗や悲しいことを『それはそれとして』と、わきに置きながら過ごしてみると、少し生きやすくなる気がする。