selectively_slow

アラフォー 毒親育ち ネグレクト アダルトチルドレン HSP 自己肯定感  あえてゆっくり自分のために自分と向き合うために 

結婚後の家庭生活



両親の人間関係が

インパクトありすぎだったので


絶対結婚しないぞ!

と思っていたけど

相手が結婚願望があって

はずみで結婚してみたら

私の場合は割とよかったので


先入観が偏っている事も

あるんだなぁと

感じる、、、

人生は分からないものだから

決めつけすぎずにオープンに

ふんわりとらえておくのも

いいのかもしれない


流れに身を任せてみるというか?


義実家とは特に定期的に

会う機会はないが

時々おすそ分けを

持って行くと




家が散らかっているから

という理由で近くの

飲食店でお茶するのだが




その際のお会計が毎回

我々が出しているのが

気に食わない



割り勘か前回出したから

今回は出すね的なのもなく、、、


奢られ方の品位ってのも

あるなぁと毎回感じる



奢られておいて

ふんぞり返った感じ

何とかならんのか?

会いたくないなーw


※毎回の態度に

うんざり来てからは

声掛けしなくなった






周りの人に聞いても

子どもに払わせないって

親の方が多そうだったから

私の違和感は

あながち間違ってない




将来的に

食い物にされないためにも

近寄らない方が良し!!


旦那側には

甥っ子がいる





コロナになって新年会がないので

去年は私が図らって夫を促し

現金書留でお年玉を送った

彼にとっては人生初の

現金書留だったと思う




今年も新年会無いようだけど

お年玉を現金書留で送ってるのか?

多分送っていないだろうなぁ

郵便局閉まっちゃうんじゃ?

てか新しいお年玉袋買ったのかな?




ソワソワ、そわそわ

と思っていたのだけど

一度言葉に出して

あとはおいておいた

夫もいっぱしの大人だ


案の定何もしてなかった

でもマズイとも

思っていないご様子




以前からお年玉だけの

お付き合いの義兄弟のおうち




年に一度会う

甥っ子のお年玉に

ヤキモキする自分もいる

なぜならうちには

子供がいないから

こっちからあっちに

出しっぱなし




以前義理のお母さんから夫が

お年玉の金額が少なすぎると

言われたことがあった




家庭家庭で

お年玉はこれくらいという

感覚値が違うんだろうなぁと

ふーん、とスルーしておいた



夫はヘラヘラと今度会った時で

いいよねーと言っていたけど

私は特に反応しなかった





私だったら忘れていたら

7日までにサッと

渡しにに行くけれど

私が責められることでもないので

彼の好きなようにしたらいい




うちは子供がいないので

甥っ子たちが成人するまで

あげるばっかりのお年玉




義理のお姉さんとお兄さんは

どう考えてるんだろー?

ムカムカと考えた年もあった




義理のご両親の近くに住んで

色々と育児を手伝ってもらってる分

義理のご両親が何かあったら

お義兄さんたちが

立ち回るんだろうなと

いうことにして

溜飲を下げておこう


読んでくださりありがとうございます

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昨夜は寝る前なんの前触れもなく、しとしと涙が止まらなくなった。

母のことを思い出して、そして子供を欲しいと思えない、否思わない、自分の人生について。
いうなれば、私は社会的不妊症と言えそうな気がする。

毒親育ちと気付いて、約1年が経ち、精神錯乱というか、自分で自分のことがわからないくらい、1日に何度も涙がこぼれまくって、何きっかけかわからないけど急に腹が立ってたまらなくなるというのはだいぶ減ってきた。 

そんななかでも、ふっと母のことを思うと涙が溢れ出ることがある。

昨夜2020/08/18の夜のように。

母に、幸せそうでいて欲しかった、今も昔も


母は感情表現の得意な人ではなく、いつも黙々と5人家族の家事を請け負っていた。

今思うと彼女は家族と団欒なんてする暇もないくらい、日々を私たちの学生生活のために奮闘していたんだと思う。

孤独そうだった。

父にも褒めたり認めてもらっている様子もなく、だからといって元々の内向的な性格や引っ越しもあり、また、時間も気力も家族に投じていたのだろう、家庭外の人間関係も皆無だった。
皆無、ワンオクロックの歌に皆無ってあったな。

子供心に、他の子のお母さんと比べて、不幸せそうって思ってた。
笑ってる記憶がほぼない。
そういう人なんだと思う。

私の母という他人が幸せだったのか、今幸せなのかはわからない。

でも、幸せであって欲しいのだ。

父からの精神的虐待の世界に住もうとも、自分を大切にして満たされていて欲しいと願うのだ。




母は血の繋がった他人なのに執着する私

そう、母は他人だ。

彼女とは血は繋がってるけども、私は私しかいなくそれ以外は全て他人だ。

子供の頃世話になったけど、分かり合えない他人。

子供の頃の恩義?があるから? 完全に忘れることができない存在。

心底、嫌うこともできないのが親という存在、、、。

ただね、子供だった自分のせいで彼女が不幸だった、不幸だったに違いないと、どこかで感じてしまうのだ。

子供の自分が存在することが罪悪であるかのような感覚はなかなか消えない。

母は私の分身のように思うことさえある。

いやまて、順番がおかしかもしれない、言うなら私は母の分身?

とにかく境界線が曖昧になりやすい。

母の心は私にはわからないのに、おかしい感覚よね、これは。

だって自分の心だって時々自分でわからなくなるし。

実は幸せかもしれないぞ、彼女の基準の中で。

私の基準に当てはめて、幸せそうじゃないと私が気が済まないなんて、私の押し付けにすぎないじゃないか。ねぇ?


毒家に育たなかったら今頃は子供がいたのかな?


私がもしも、毒家に育たず、10歳頃から自分の家族へ違和感を感じず、家族が好きだったらば、なんてことも考えが巡って昨夜は涙が出た。

大多数のように?当たり前に子供が欲しいと思ったのだろうか、と。

今頃は小さな手と手繋ぎして、その体の重みを感じ、誰かこの世界の新入りさんのちっさい命のお世話をしながら、このブログを書くこともなく、日々をひたすら前に進める日常を過ごしていたのかな?


子供が大きくなるにつれ、育っていく心を見つめながら過ごしていただろうか?


毒家トマデイカナケレバ、、、子供がいる家庭に、心からの憧れを持ち、自分も子供が欲しい育てたいと思えただろうか?と。





人間の行動原理の一つは、希望


ああ、◯◯したら大変だけど楽しいだろうな。

これだ、行動原理の一つに希望があると思う。

山登りにハマる人も、大変だけど楽しいだろうながあるからじゃないか?

そうなってくると、大変だろうけど、さえも、ワクワクになってくる。

世の中の子供を持てる人は、大方の場合、子供がいる自分の幸せ、という名の希望を多かれ少なかれ持てた人じゃないかと思う。

子供がいる自分の幸せ?

へぇ、、、子供のある生活について、私自身ははとてもそう思えないことを告白させて欲しい。

友達の子供や友達の親としての姿はとても微笑ましく羨ましくさえ感じるのだが、

私が、、、となると途端に、ほかほかの温室から温度差マイナス何十度の極寒アイスワールドのようになる(時々遊園地とかであるやつ

子供(だった自分)が幸せのシンボルでないからだ。

私にはそこに希望がない。

そしてもし子供を持った場合、自分が毒親のようにならない自信がない。

今以上に自分を嫌いになるきっかけは欲しくない。

子供が育つならば、私の元ではなく、乞われて生まれて欲しい。




毒親育ちの私は社会的不妊症なのかもしれない

学生時代から、恋人は全くいなかったというわけではない、結婚も願望はなかったものの、相手に恵まれ、今この生活は幸せだと思える自分がいる。


夫と私の関係は毒親の夫婦関係とは違う、と言える。

ただその幸せで穏やかな夫婦関係においても、私は子供を欲しいと思えない、否、思わないのだ。

私は積極的に妊娠を望まないため、妊娠をしない私は、社会的不妊症、とでも言えそうだ。

だけど対処をするつもりはない。

子供をもうけないのが私の誠意なのだ。


普通じゃない人生でも、ダメじゃないはず。

というかあいまいな普通への依存をやめて自分らしさを高めて生きていたい。


ずっと家事炊事は女性の役割、男性に料理をさせるなんて旦那が可哀そう
という固定概念にキューウキュウに縛りあげになっていたHSP毒子の私です。

徐々に緩まってきているのを感じます。

【今までの私の感情】
例えば①
私が気力が出ないときに、旦那が皿を洗っている音がする。
→悪いなぁ、私がやるべきなのに・・・・と思っていました。


例えば②
私がメンタル的なことも含め具合が悪く動けないと、旦那がごはんの用意をすることがある。
→申し訳ない、本当は私がちゃんとした料理が作れたら一番なのに、私がダメだからと思っていました。


家事ができない事を旦那から責められることが無くても私自身が私を激しく当たり前のように責めていました。



【最近の私の感情】
例えば①
皿を洗ってくれてありがたい~ラッキー、皿をしまうのもやってほしい。

例えば②
意外と楽しそうにやっているし、ありがたくおいしく頂こう、ワーイ。


家事ができないときは、そういう時、ゆっくり休んでまた元気が湧いたら頑張れる。

旦那君も出来るときにやってるだけだから、出来ないときはしていないし。

献立を考える大変さ、味付けの苦労など分かってきてくれてむしろ嬉しい。


【人に頼るのが出来ない毒親育ちHSPにも慣れがあるのかもナ】
私は人に頼るのが出来ない、HSPで毒親育ちだからだと思う。

頼ったら申し訳ないし、頼るのが怖いという気持ちさえある。
頼っても助けてもらえないだろうという思いも強い。


だって実の親には、頼ろうとすると嫌な顔をされ、手を差し伸べてもらえないどころか、からかわれ、馬鹿にされたから、繰り返し繰り返し。

でも、今の新しい家族が出来てからは、ちょっとずつ人に頼る経験を溜めつつあるのかもしれない。


旦那君が料理を作る回数が増えるたびに、私の中にも旦那が料理をするという経験値が溜まってきて、出来なくて頼った罪悪感、自己否定感が薄まり、日常の出来事として慣れが出てきたのかもしれない。




関連記事:
2020年04月03日
子なし夫婦の妻はこう疑問に思う。そういや家事・炊事・洗濯って女性の役割だっけ?

もしかしたら、HSPだからか、私は『優先順位をつける』をよく理解できてなかったかもしれないデス。

あれあれ、私って社会人経験何年だっけ??

優先順位をつけると言うととってもかっこいいんだけど、よくよく考えたら目的に対して、優先順位が高いものから手をつけて、低いものは後回しにすると言う事なんですよね。

なんで優先順位をつけるかと言うと目的を効率的に達成して楽をする為なんですよね。

だけど私は優先順位をつけると、結局全部やらなきゃいけない!と思って、
だんだん追い立てられるような気持ちになってしまうと言う事象が常に起きていました。

HSPだからかな?


【優先順位が低いことはやらないでもいいかも?】
よくよく考えたら優先順位が低いことは、
もしかしたらやらなくていいかも、堂々と後回しで良いことなのかも。

じゃあ、先を見ると不安になって焦っちゃう私の場合とりあえず見えないように隠しちゃってもいいのかなぁ。

【完璧にできなくてもまぁいいか、、、】
絶対に完璧にしなければならない!って常に思っていたなぁと過去の自分を振り返ります。

だからいつも気が抜けなくて、歯を食いしばったような、自分に鞭を打つような日々を過ごしていたんだと思います。

今は仕事もしていないし、できなくてもまぁいいかで、自分に期待をかけすぎずに暮らしてみたい。

【今の優先事項は体と心をゆっくり休める事】
心豊かな人生を送るという目的の為に、今の私は、
板についた頑張り癖とお金優先主義をすてて、体と心をゆっくり休める事が優先事項だと思う。

家事や料理は最優先事項じゃないから、体調によっては後回しか、やらない又は、人に頼ってもいいってこと。

【できないことに対する罪悪感が減ってきた】
今までは旦那が料理をしてくれても、常に罪悪感があった。

旦那は旦那で料理を楽しんでいる様子だったし、私が作れない事を責めたりはしない。

でも、本当は妻の女の私がやらないといけないのに、やらないから旦那がやったんだって、自己否定・自己批判していたんだと思う。

具合が悪くてできないのに、自分のせいじゃないのに。

だけど最近は、料理が出来ない日の自分を否定しなくていいってようやく少ーしだけ思えた。

私だけじゃなくて、どんな人でもそんな日はあるよね。



この心境の変化は、日々自分に優しくを考えていたから起きたのかもしれない。

他人に親切に、他人の得を考えるばかりで自己犠牲が当たり前の今までから、

これからは、自分に優しく、自分の幸せを考えて暮らしていきたい。


今の旦那と同棲していた時は、女という役割にとらわれていた。
結婚してからは、妻という役割に対する固定概念にとらわれているな、と思った。
現在結婚10年目である。

【固定概念の出元は毒家や社会の刷り込み】
日用品の買いだし、調味料の残量に合わせた買い置きの用意、衣類の材質に合わせた洗濯、洗剤の予備の残量管理、玄関の掃除、食事の準備、食料品の買い出し、掃除、窓ふき、お風呂掃除、配水管の掃除、鏡の拭き掃除、それぞれの照明器具に合わせた替えの電球の用意、

その他もろも~ろ”円周率”のごとく、2人暮らしでも家にまつわる作業はたーくさんあるのだけれど、、、

これらについて、男性と女性どちらがやることがまず思いつくか?

女性だろう、そういう家庭(妻子の立場の低い毒家)、社会で育ってきたから。


だけど、実際は、絶対そうじゃなきゃいけないわけじゃない。

家庭によってはお父さんの方がきれい好きな家もあったかもしれないし、料理も週末はいつもお父さんがやっていた家もあるかもしれない。

(ふと思うが、お母さんの立場が強くて、お母さんが楽しそうに自分のしたいことをしている家で生活してみたかったかも?そしたら家庭に関する意識はだいぶ違ったと思う)


【私は勝手に自分の役割と思うことを率先して行っていた】

私は当たり前のように、毒家や社会の刷り込み通りにふるまおうと、同棲や結婚生活の中で自分の役割を増やしていっていた。

それが楽しいから、やりたいから、じゃなくて私がやるのが妥当だという認識があったと思う。

そういう風に(勝手に、でも、懸命に)役割を果たすことが自分の存在意義を確立する手段とも思っていたかもしれない。

例えば、
食事時が近づくと、何か用意しなきゃと頭の中が忙しない私。
ごみ箱がいっぱいになって、溜まったのを集めるのも私、捨てるのも私。
食材や日用品の買い出しも私。

思い返せば、常に家の中の気になったことを率先して行って、気が休まらずに疲れ、きつかった。


【大体なんで私がやってあげなきゃいけないの?という事も多い】
旦那が好きな欲しいものをつぶやいたら、私が覚えといて買ってくるとか、

彼個人の買い物なのに、なんで私が買っといて~と言われなきゃいけないのか?

気の使いすぎなんだと思った。

よっぽど余裕があって覚えていればでもいいのにすごく律義にやりすぎた。

最近は、旦那が何か言ったら「へぇ」、とか「いいと思うよ~」位に止めて
積極的に自分のやることを増やさないようにしている。


【特に食事を作るのが億劫で嫌い】
今までは、私の思うところのいい奥さんでありたいという気持ちが強くて、料理もかなり頑張っていたと思う。

最近は、自分の体力・精神力を削りながら、きっちりした食事を毎日作る必要はないなと思うようになってきた。

食事を用意することに関する精神力の消耗が激しい。

今まで頑張っていた下味冷凍なども、最初から味付き肉を買ってきて冷凍しとけばいいんじゃないかと思うようになってきた。

正直、下味冷凍はコスパ的にも良いと思っているけど、自分の労力もかかってて準備するのがしんどいな~って思う気持ちが常にあった。

栄養バランスは考えて食事はとりたいけど、品数をたくさん作るとか見栄えのする料理をつくるとか、そんな頑張りすぎなくていいや、とそう思うようになった。


【家事の勝手に頑張りすぎに気づいた】
私の夫は結婚当初から

「食事の事は気にしないでくれ、一度だって食事を作ってくれなんて言ってない」

と言いっていた。

これは私にとっては「でもさぁ・・・」と思う物言いで、何度も食事については意見の食い違いがあった。

これは毒家と、社会の固定概念から得られたイメージに過ぎないし、それに影響されるのは仕方のないことなんだけれど、

『私が食事作らないと』と自分の役割を、勝手に設定してその中で苦しみもがいていたのは私かもしれないと、少し思い返してみた。


毒家の影響から逃れ、より自分が自分の人生を生きれるように。

頑張りすぎないで、日々が楽しくなるように、自分に意識を向けてみる。
自分に優しく、日々の環境設定を整えてみよう。


関連記事:HSPで毒子の環境設定についてはコチラ


私は、育った家庭しかリアルに知ることがないため、
甚だ結婚願望はありませんでした。

妻=我慢、虐げられる、馬鹿にされる、認められない
 
母親=不幸、苦痛

と思っていました。

ですが、約10年前に結婚をしました。
その結果、義実家というものが出来ました。

家族構成こそ同じなのですが、約10年間義実家の嫁をして
義実家は私の育った”いわゆる実家”とは異なるようです。

まず義理のお母さんがニコニコ、イキイキして活動的です。
お父さんはちょっと、なところもありますが率先して家族を陥れません。
義理のお母さんは、子供たちの昔の話、今の話をとても楽しそうにします。

もちろん少しは、義理のお父さんへの愚痴もあるようです。
嫁の私には見えない、長年の、、、も、もちろんあると思います。

1つ言えるのは
楽しそうでイキイキしているように見える
母親という役割の人を目の当たりにするのは、
私にとってはとても新鮮なことです。

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